ひつじかいです(*^^*)
今回は自身の名前に込められた意味や願いについて考えてみたいと思います。
命名とは
命名とは、その名の通り名前を命ずる、名付けするということを指しています。
長男だから一郎、次男だから次郎という名前の付け方は現代社会においてあまりないと思います。
そうすると名付ける者の好きな言葉や字が含まれていたり、願いが込められて名付けられるということが多いでしょう。
名前に込められた願いを考えたことはありますか?
- 健康に育って欲しい
- 優しい子に育って欲しい
- 強い子に育って欲しい など…
親は多くの願いを込めて子どもに名前を付けるし、名前に含まれていなくても願いを持って子育てしているはずです。
(中には育児を放棄する人もいるので絶対ではないです)
そして、願いが強くて名前にその願いが入っている子ほど苦境に立たされてしまう危うさもあります。
明るく育って欲しいから、明、光、という漢字を使う
幸せになって欲しいから、幸という漢字を使う
命名する時の名付けする人の心境も込められているのが名前だと思います。
特にキラキラネームが流行るより前の世代の名前は、願いが込められているのがわかりやすいでしょう。
願いが強い危うさ
名付けする人の強い心境や願いが込められた名前を持っている方の家庭環境はどうでしょうか?
あまり良くない家庭環境の場合が多いのではないかと思います。
子どもにこうなって欲しいという願いが強いとどうしてものびのびと育てることが出来なくなってしまうことがあります。
全部の家庭がそういうわけではないので、一例として読んでくださいね。
自身が恵まれない子ども時代を過ごして、家庭を持つと反面教師として温かい家庭を築こうと思います。
(もしくは、家庭を持ちたくないと思うこともあります)
そして、生まれた子どもには幸せになって欲しいと考えるでしょう。
自分の子ども時代とは逆にしようと強く思うとそれはそれで子どもに負担をかけてしまいます。
何事もバランスが大切です。
栄養不足も問題ですが、栄養過多になるのも身体に悪影響を及ぼすことと同じです。
自身の恵まれない子ども時代にも良いことはあったはずです。
良いことは良いこととして受け止めて、良くないことは自身の心の傷をまず癒やすことを第一優先にしましょう。
反面教師で…という願いが強いということは、否定していることになります。
過去の自分を否定している、親を否定している。
過去の自分が現在の自分を作り上げたので、それは受け入れましょう。
親も生まれたときから親ではないですし、子どもには見せていない理由や原因があってのことかもしれませんよ。
本当はこんなことしたくないのにと苦しんでいたのかもしれませんね。
だからこそ、親のことも受け入れるというのが大切になります。
親は、子どもに強い願いという負のエネルギーを与えないためにも一度自身の背負ってきた重荷を外すときが必要です。
子どもがいないという人も同じです。
(私は不妊で子どもがいません)
負のエネルギーをパートナーにぶつけてしまっていないか一度考えてみてください。
こんな夫婦になりたいという気持ちが強いほど拗れてしまいます。
お互いの理想が合致しているなら良いですが、ズレていると溝は深まるばかりです。
人間として最低限、お互い元気に生きていられたら良いかなと思っていれば気持ちが楽になります。
私の名前について
私の名前は父親が付けてくれました。
父親に理由を聞いたら、テキトーに付けたと言われたことを覚えています。
姉の名前は母親が付けて、好きな芸能人の名前から取ったらしいです。
父親が早くに亡くなっているため、私の名前の意味を聞くことはもう出来ません。
父親がきっと求めていたものなんだろうなと、強い想いが込められていると思います。
父親は、私に対して甘くて特に可愛がってくれました。
愛情に飢えた人だったんだろうなと思います。
だから「愛」という漢字を使って私に名前を付けたんだろうなと考えます。
愛という名前の人は幸せになれない、孤独を感じたまま人生を終える人が多いと言っている占い師がいました。
芸名に使っていてもそうだと「飯島愛さん」のことも例に挙げていました。
当時は納得して聞いていましたが、今はそうだったとしても変われるんじゃないかと思います。
私自身は孤独を感じることはほとんどなくなりました。
飯島愛さんだってどうだったかわからないのに勝手に決めつけないでと思います。
父親が頑なに私の名前の名付け理由を教えてくれなかったのは、自分自身の心の内を読み取られたくなかったからなのではないかと推測します。
母親は「みんなに愛されるように、人に愛を与えられるような子になって欲しい」という意味があると思うと言っていました。
名前に合った人間に少しでも近づけるように生きていこうと今は思います。
最後に
今回は、自分語りが過ぎる内容になってしまいました。
名前に込められた願いの呪縛に苦しんでいる人がいたら、今一度込められた願いの本質を見極めてみて欲しいと思います。
そこから自分の向き合う必要のあることが見つかるかもしれません。
それでは、また(*^^*)