「正義」は諸刃の剣

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どうも、ひつじかいです(*^^*)

「正義」とは何か…

私は正義感が強すぎるが余り人を傷つけて生きてきたと思います。

人によって正義のあり方が違うし、それを押し付けると傷つけてしまったり自分も傷ついたり…

自分自身の「正義」を押し付けてはいけないと悟った話です。

そして、正義を貫くことが必ずしも正しいわけではないということについても書いていきます。

「正義」とは何か

「正義」と聞くと何を思い浮かべますか?

「絶対的に正しいこと」

「道理に沿ったこと」

などと考える方が多いのではないかと思います。

ちなみに辞書で調べると以下の通りです。

 人の道にかなっていて正しいこと。「正義を貫く」「正義の味方」

 正しい意義。また、正しい解釈。「四書正義」

 人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範。

goo辞書( https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%AD%A3%E7%BE%A9/ )より

正義についての議論は多方面で行われ、それに伴う本も多く出版されています。

報復的であったり、配分的であったりと「正義」にはいくつかの種類があります。

「正義」に「感」がつく「正義感」となると意味合いは以下の通りです。

不正を憎み、正義を尊ぶ気持ち。「正義感に燃える」

goo辞書( https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E6%84%9F/ )より

「正義を貫く」だけなら他人を巻き込むことは少ないように思えますが、「正義感に燃える」となると一気に他人への関与が含まれるように感じられます。

「正義」は一つではない

「正義」は正しいことだから、正解は一つしかないと決めつけたくなります。

しかし、私から見た正しいことと他者から見た正しいことは同じでしょうか?

今にも倒れてしまいそうなほどやせ細った浮浪者がいたとします。

私は哀れに思って、パンを一つ差し出しました。

私は良いことをした、正しいことをした、と気分よく家路につきました。

人によっては、私に賞賛の声をかけてくれるでしょう。

しかし、なんてことをするんだと非難する人もいます。

私にとっての「正義」であっても他者にとっては「正義ではないこと」と捉えられることが世の中には多いです。

先ほどの例文「浮浪者にパンを差し出したことが正しい」とすると、理由はほとんどこのようになるでしょう。

今にも倒れてしまいそうな人の命を繋いだから正しい。優しさのある人間だ。

では、「正しくはない」とするとどのような理由になるでしょうか。

数日はしのげてもその浮浪者はその後食べ物を口に出来ないかもしれない。継続的な支援が出来ないならば手を差し伸べない方が優しさだ。偽善者だ。

この例文は大変極端だと思います。

しかし、これと同じようなことが現実社会では頻繁に起きているのです。

例えば、障がい者を取り上げた番組が夏に毎年放送されますが、それに対しても「感動ポルノ」だという批判があります。

他にも世の中には、一つの事柄によって「良い思いをする者」反対に「良い思いをしない者」がいます。

どのような場所にも表と裏があるのです。

正義の種類

正義にはいくつか種類があります。

報復的正義

報復的な正義とは、その名の通り「犯罪などの罪に対する対応」のことを言います。

ほとんどの人は、犯罪者には適正な罰をと考えます。

ただし、近年はインターネットの普及によって、全く関係のない第三者による報復とは言えない見せしめも報復的正義と混同されていると思います。

配分的正義

配分的な正義とは、平等に配分するということや対価を得るということです。

例えば、労働に対して賃金が支払われないとなると誰しもが不満を抱きます。

能力や努力に応じて賃金が決定するということも配分的と言えます。

調整的正義

調整的正義とは、社会に生じた不正等を調整することです。

例えば、能力や努力によって賃金の差が広がるというのは、低賃金になってしまう人からすると生まれ持った能力や環境によって埋められない差となってしまいます。

その差を埋めるために課税が収入等によって異なり、国からの保証制度があります。

他にも正義には種類がいくつかあります。

「正義」という言葉一つとっても一言では言い表せないとても重い意味合いを持っています。

正義を押し付けていた苦い経験

正しいことはどのようなことがあっても押し通すべきだと考えていました。

高校生の頃、母親にこのようなことを言われました。

「正義だと思っていることが正しいとは限らない。正義は人を傷つけることもある」

母親が言っていることの意味について、夫婦関係に問題が生じるまでわかりませんでした。

結婚して夫婦になると恋人同士の時とは関係性が変わります。

恋人の時は、嫌なことがあればはっきりと言っても関係を修復することは簡単だったと思います。

夫婦になると日々の生活の中で、すれ違いなどの歪みによって少しずつ関係がこじれてしまうことがあります。

自身の正しさばかりを追い求めてしまい、夫の気持ちに気づけていませんでした。

夫は仕事が忙しく、朝は早く夜帰ってくるのは遅かったです。

私は午後からの仕事で遅く帰ってくるので、午前中にご飯を作り出勤していました。

しかし、夫は夕飯はいらないとか連絡がないまま帰ってきたりとか…

私が思うような行動をしてくれなくなりました。

出来た妻なら、夫を責めずに労うでしょう。

私はむしろそんな夫を責めたててしまっていました。

私の中の「理想の夫婦」を夫に押し付けていたので、夫は窮屈になってしまったのだと思います。

そして、夫は私に(家に)寄り付かなくなりました。

夫が帰ってこなかった時については過去の記事を参照していただけると幸いです。

夫婦関係について

私にとっての正しさは、夫にとっては息苦しさでしかなかったということです。

「正義」というのは、個人の心の内に持つことは大切だと思います。

しかし、他者に押し付けてはいけないものなのだと感じました。

世の中には偽善者とエセ正義論者で溢れている

「正義は一つではない」でも述べていますが、表面的な優しさやわかりやすい正しさは偽善だと言われます。

そして、それをこれ見よがしに叩くという文化が日本では出来上がっています。

私は「感動ポルノ」と言われる番組は観ません。

「可哀想だな…」と思うこともないからです。

障がいを持って生まれた人もそうではない人もそれぞれが一生懸命に生きていると思うので、あえて「可哀想」という感情を抱くことはありません。

ただ、ひたむきに努力をしている方は無条件に「尊敬」します。

ひたむきに努力をしているかに関して、障がいは関係ないと思います。

しかし、その番組が募った募金によって救われる団体もあるでしょう。

それならば、その番組を否定する材料にはならないのかなとも思います。

「良い思いをする者」と「良い思いをしない者」それぞれいるのであれば、偽善であっても自分が信じる道を進むしかないでしょう。

これが絶対に正しいということは、世の中にあまりないのかもしれません。

そうならば、自分自身の正しさを押し通してしまうのは危険ですね。

周りの人を息苦しくさせて、最終的には自分自身の首を絞めることにもなりかねません。

正しくありたいと思う反面、どうでも良いやという気持ちも持ち合わせた方が生きやすいのかもしれませんね。

※ただし、犯罪行為を正当だと私は思えません。罪には適正な罰が与えられないと秩序が守られないと考えます。ただ、私刑はほどほどにしないと人権問題になりかねないですね。

最後に

今回は「正義」について記事を書きました。

今も「正しさ」を追い求めてしまうところが抜けきれないです。

「見て見ぬふり」も出来ないので、人間としての危うさを持ち合わせているなと感じています。

自分自身の「正義」は心の内に潜めて、他者には強要しないようにこれからも気を付けていきたいです。

少しでもご自身の「正義」について考える材料になればと思います。

それでは、また(*^^*)

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