疑い深いのと信じやすいのどっちが幸せ?

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どうも!ひつじかいです(*^^*)

今回は疑い深い人間と信じる人間どちらが幸せかについて、私の経験を交えて書いていきます。

信じることは悪だという思い込み

私は子どもの頃から愛嬌が良いと大人から言われ、いつもニコニコしていました。

「困っている人がいたら助けなさい」

「自分を犠牲にしてでも世のために働きなさい」

こんな刷り込みの中にいたから他人に優しくするのが当たり前で、悪い人なんていないという素直な…子どもに育ちました。

しかし、それが仇となり変質者に出くわす日々が訪れます。

体の発達が早かったので、小学校高学年には体のラインがほとんど出来上がっていました。

その頃から変質者に狙われ始めて、本当に困っている人なんだと信じて酷い目に遭いました。

信じて行った親切がこんな形になって返ってくるなんて…と人を信じることが出来なくなり、変質者の一件から「信じることは悪。何事も疑ってかかる」という私の思考は生まれました。

それからというものの、何でも疑って、表面では信じてる風でもいつか裏切られるんだろうと人を信じることは出来なくなっていました。

そして、人間不信を加速させたのは、母親が知人に騙されて経済的に苦しくなったというのと同時に恩師が(言い方は悪いけど)教え子にハメられて逮捕されたという出来事が一挙に起きた時期です。

私が大学2年生の冬に入る頃のことでした。

その時から人を信じるのは完全にやめようと思いました。

この人なら…と思ってもいつかは裏切られるんだと心に言い聞かせて深くは信じないようにしました。

対照的な母親に嫌悪する

母は、私と違って信じやすい人間です。

自身では疑っているようなことも言いますが、私から見れば人を信じるお人好しだと思います。

悪い意味ではなく羨ましいくらいなんですが、私よりかは人を信じるし、もし疑っていたとしてもしっかり信じているとしか思えない言動をとります。

例えば、父親が不倫していることは知っていても案外父が「○○に行ってくる」と言えば「そうなんだ」と信じるし、私と姉のことも信じてくれていたと思います。

人を信じることが出来る母を当時は、すごく嫌だなと思っていました。

疑うことが出来る私の方が利口なんじゃないかとも思うくらい嫌悪していた時期もあります。

疑うことを知らない人を少し見下すような性格は、社会人になってからも続いていました。

信じ抜くのはしんどいけど救われる

私の夫も私を疑うようなことはありません。

男友達がいる飲み会に参加しても、私が不貞を働くわけがない、そんな人間ではないと強く信じてくれます。

確かに私は潔癖なため、不特定多数の人と関係なんて持つことが出来ないと考えていますし、夫に話したこともあります。

だからと言ってそれを鵜呑みに出来る、信じられるというのが私には考えられませんでした。

対して私は、夫が女性の居る飲み会に行くことや連絡もなく遅く帰ってくることを不安に思い、不倫しているのではないか?他に好きな人が出来たのではないか?などと良からぬ妄想をすることもしばしばでした。

夫は真面目で、優しくて、私のことを一番に考えてくれるような人なのに何故私は信じることが出来ないんだろうという気持ちと人間はいつか相手を裏切るんだという子どもの頃からの思い込みの間でとても苦しみました。

信じたいのに信じられない。その原因は確かに私にありました。

疑うというのは、思っている以上にエネルギーを消耗します。

信じるのは、自然に信じているならそこまでのエネルギーを要しませんが無理に信じようとすると心が疲弊するので、無条件に信じられるようになるのには時間がかかります。

でも、信じる者は救われると思います。

しんどいを超えたら楽になれるはずです。

信じることが出来るようになるためには

そもそも私の人を信じられなくなった事象は、子どもの頃の「トラウマ」が原因です。

このトラウマは、通常家族や夫婦関係に持ち出してはいけない感情のハズなのにどこかですり替わって、私が見える全世界での自分ルールに適用されてしまいました。

他人は信じなくても良い。変質者はその人が幼い私を傷つけたというだけで、母親や夫は私を傷つけはしないし、大切に思ってくれている。

その変質者は、私の親切心を利用して私を傷つけたけど、みんながみんなそうではない。

憎むべきは私を傷つけた変質者たちだけであって、その対象を家族にすり替えてはいけない。

私は、過去のトラウマに囚われすぎて勝手に傷ついて、更に自分で自分を傷つけていたんだと気づきました。

よく許す(赦す)と良いと言われますが、私は自分を傷つけた犯罪者を許すつもりは一切ありません

でも、私が傷つけられたと思っていた家族に関しては、憎んだり根に持ったりするようなことはしたくないと思います。

私も完璧な人間ではないので、不用意な言葉を発してしまうことがあります。

いちいち過去に言われてちょっと傷ついた言葉をいつまでも引きずるのはやめようと思ってから少しずつ心が解れるような感覚になりました。

私は怒りや悲しみ、憎しみといった感情を間違った場所にぶつけていたんだなとわかりました。

それからは、無条件に夫を信じられるようになりたいと思い、詮索することをやめました。

しかし、すぐに「信じるよ!」なんてなるわけがないので、まずは無関心になることから始めました。

過関心だったと思うので、極端に無関心になることで一度自分の感情を整理したくて「何していてもいいや。私は私で自分磨きとかカフェ巡りとかしよう!」という考えに至りました。

それまで、休みの日は朝早くに夫が出かけて遅くに帰ってきていたので、対抗することにしました(*´∀`*)

夫が出かける前に「私出かけるから~♪」と言ってオシャレして出かけてみたり、何も言わずに家を出てジムに通ったり・・・

この方法は、夫婦関係に悩む方全員に適しているとは思いませんが私の夫は「ん?」という顔をしていたので私は「よっしゃ~!やってやったぜ☆」と思っていました。

ちょっと性格の悪さが出ていますけど、極端に無関心になるにはこのくらいしないと私はグルグル考えてしまうのでやってよかったと思っています。

自分の時間を楽しむと夫のことを考えなくなる

不安な気持ちは時間に余裕があるからこそ尚更出てくるものです。

私は、夫のことを考えなくても良くなるようにスケジュールをびっしり入れてからあまり深く考えすぎるということはなくなりました。

そして、私の不可解な行動に「ん?」と夫に思わせることも出来たので一石二鳥だったのかなと思っています。

無関心に慣れた頃から「私には私の時間があって、夫には夫の時間がある。何をしているかわからない時間があっても良いんだな。私が何をしているか夫がわからないように、私もわからないことがあって当然だな」と思うようになりました。

ふと夫は何しているかな・・・と思っても良からぬ妄想はしなくなっていきました。

もし、以前していた良からぬ妄想通り夫が不倫をしていたらどうしようかなと考えてみましたが、それでも私は夫婦関係を修復する!!と強く思えたので不安感は減りました。

無条件に信じられるって幸せなことだと思います。

裏切られるかもしれないと自分が深く傷つかないように予防線を張るのは、自ら幸せを壊しに行く行為だと考えます。

再度言いますが、信じる者は救われる

最後に

妄信的に信じるのもどうかと思いますが、人や宗教などなんでも妄信的に信じる人ってある意味強いですし、ブレないですよね。

その信じる対象がなくなったら弱いから、結局妄信的に信じすぎる人は弱いと思います。

では、疑って生きている人が強いかと言うと案外そうでもないんですよね。

疑いすぎて常に不安感を抱いてしまうなんてこともあると思います。

家族や親友など大切に思う存在を信じるのは、人間の性ではないでしょうか。

協力して生き抜いてきたという歴史があるからこそ、私達は集団にいると安心するのかなと考えます。

そして、宗教が出来て信じることで心が強くなれることを学び、それを悪用する人も出現したというところでしょうか。(私の勝手な想像です)

信じるのも疑うのもバランスが大事だと思いますが、まずは大切な相手(特に配偶者)のことは心から信じてみませんか?

自分が選んだ相手なんですから、自信を持って信じましょう。

もし、裏切られることがあったとしてもみんながそうというわけではありません。

その時になってから考えても良いことってありますよ。

それではまた(*^^*)

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